The “Yanai Report” on Article 9, Part 4

The next segment of my analysis of the Yanai Report is long overdue. The final two posts were supposed to be the critical analysis of the report, from both a constitutional and international law perspective. The constitutional criticism was briefly explained in my Op-Ed piece in the Japan Times, which can be found here. Before posting a more developed version of that, together with the international law critique, I am posting below the Japanese translation of the Op-Ed piece. It was declined by the Asahi Shinbun (ostensibly because it was too narrow in focussing exclusively on one fundamental flaw in the report), but I thought that it should be made available somewhere for wider consumption, since there has been little debate on this aspect of the report in the Japanese media. The eloquent translation is thanks to Prof. Norimoto Setsuko.

第9条の新解釈を押し付けようとすることの致命的な欠陥

一般に柳井報告として知られている「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」報告は、日本が集団的自衛および集団安全保障活動に参加することを可能にするためには、日本国憲法第9条の再解釈が必要であると主張している。現在は、いずれの活動も、第9条第1項で禁止されていると解されている。しかし、この報告書は、懇談会の分析の正当性を根底から覆す根本的欠陥を明らかにしている。

懇談会は20074月に、安倍晋三内閣(当時)によって、憲法の「再解釈」の必要性を検討するために設置された。懇談会は、13人の著名な学者、元外交官、その大部分は国際関係、政治、国家安全保障の専門家である官僚たちで構成されたていた。懇談会のメンバーの中に憲法学者は一人しかいなかった。懇談会は、憲法改正に賛成していることが公に知られているタカ派によって占められていると批判された。座長の柳井俊二は、元アメリカ大使であり、現在は中央大学教授であるが、6月に内閣に懇談会報告を提出した。

当時の福田康夫首相は、この報告書すなわち憲法の「再解釈」にはほとんど興味を示さなかった。しかし麻生首相は、第9条は「再解釈」されなければならないと、国連で繰り返し述べた。さらに柳井報告書が、官僚たちの間で歓迎され、政府内において次第に影響力を行使しそうな証拠がある。したがってこの報告書は、もっと公に吟味の対象とならなければならないのである。

この報告書は、冷戦終結以降、日本および国際社会には脅威が増大し、脅威の種類も様々になって国際的な安全保障の環境が変化したため、これまで確立されてきた憲法の解釈は、もはや適切ではないと主張している。むしろ、9条は重要な安全保障の目的の遂行を妨げているというのである。

このように、この報告書は、一層効果的な防衛力と一層強固な国家安全政策の展開を可能にするために、第9条の解釈は「改め」なれなければならないと主張している。日本を効果的に防衛し、日本の安全保障にとっての要である日米安全保障条約を支持し、日本の安全保障につながる国際的な平和と安全保障に貢献するという戦略的に緊急性を要することがらを遂行するためにはこれが必要であるというのである。要するに報告書の主張するところは煎じつめればこうである。「日本はより多くの脅威にさらされている。したがって、第9条の意味は、われわれがこれらの脅威によりよく対処できるように変えられなければない」。

(このような)政治的分析は賞賛に値する。しかし、憲法的分析としては、このような主張は、不合理である。現在の(国際)状況が提起した諸問題を識別するところから始めて、(次に)これらの諸問題を解決するのに必要な政治的対応を決定することに移り、それからそのような政策を採用することを促すための憲法条項の解釈に終わるというアプローチそのものが全く不合理なのである。

いかなる憲法理論の定説においても、憲法の解釈は、ある特定の条項の結論や政治的な関連問題から出発し、次にその条項の意味を政治的に望ましい成果を実現できるようなやり方で反対向きに移っていくことはできない。そのような結果志向の論法は、明らかに説得力に欠ける。それどころか、報告書の中で主張されているところとは異なり、懇談会が行ったのはまさしくこのことなのである。

憲法は自国の基本的な法的枠組みを形成している。その諸条項は、将来の世代に対して、このようにつくられたシステムの制限内で、かつ憲法が具体化した価値や理想に従って行動することを義務付けている。ある憲法条項の意味は、その条項それ自体の正文を考慮し、その条項が達成するように企図されている目的を理解して決定しなければならない。そうしたプロセスを助けるものに、憲法の他の部分への考慮や憲法制定・批准の歴史がある。それらは、そのプロセスの中で書き上げられた法的諸原則が教えてくれる。

基本的な法原則を運用するにあたって、一貫性、安定性、予測可能性は、法治主義にとって決定的に重要であるから、その条項の裁判所や憲法上必要な権限を備えた統治機構によるその後の解釈や長年にわたるその運用もまた解釈のための重要な基準である。

憲法解釈については様々な理論がある。他のものに比べ、正本と憲法制定者意思により結合しているものもあるし、憲法は、裁判所における解釈の長年にわたる積み重ねを通して、また価値観の変動や国の現実状況に伴って徐々に発展する生きた制度であるということを強調する研究方法もある。しかし、認識された政治上の必要性に合わせるため、その場しのぎの極端な政府による条項再解釈を予定するような憲法解釈論は存在しない。

仮に、国の状況に重要な変化が、ある憲法の条項を継続して持ち続けることに疑義が生ずるほどのものになった場合には、適切な道は憲法を改正することである。状況の変化、さらには価値観の変化でさえも、明らかに予定されている。通常(憲法)改正手続きは憲法システムの一部分をなしている。日本国憲法に例外ではない。日本国憲法はドイツやアメリカ合衆国よりも簡単な改正手続きをもっているのである。

その場しのぎの「解釈」とりわけ行政府のその場しのぎの「解釈」は、まさしく正統な憲法改正手続きを回避する究極のやり方なのである。

もし国民の多数はそのような改正を支持しないだろうというのであれば、それは、国民の多数が賛同しない新しい意味を憲法に押し付けようとすることの不合理性を際立たせるだけである。そもそも、「状況が変わった。だから我々は憲法を変えなくてはならない」という議論は、まったく正当なものである。しかし「状況が変わった。だから憲法の意味は変わらなければならない」という議論は正当なものではない。

もし政府が状況の変化を理由に第9条を「再解釈」することが簡単にできるなら、ほかの条項ではなぜそれができないということになるのか。日本への移民の数が、高齢者の人口という難問に反応を示して増加するならば、政府はもはや外国人に対する差別を禁止するものではないとして、第14条をも「再解釈」することができるのであろうか。いかなる条項の「再解釈」をも、憲法の構造全体を危機に陥れることになる。もちろん、裁判所は憲法を解釈する最終的な権威をもっている。しかし日本の最高裁判所は歴史的に、こうした状況では頼りにならないほど政府に敬意を示してきた。

アメリカ合衆国の銃の問題を考えてみよう。多数のアメリカ人やおそらく世界の他のほとんどの国の人々は、先進国の中で、最も殺人や暴力の発生率が高い国で、個人に小火器を保所持する権利を保障している憲法条項を持つということは、誤っていると考えている。その条項すなわち修正第2条は、200年以上も前に批准されたものである。それは、多くの人々によって、時代錯誤であり、かつアメリカにおける銃という現代の社会悪を減らすための努力に対する重大な障害となっていると考えられている。

しかし、アメリカ合衆国大統領や連邦議会が、すべての小火器を法的に禁止することを可能にするために、修正第2条を「再解釈」するなどということは全く想像すらできないことである。そして、アメリカ合衆国憲法修正第2条は、日本国憲法第9条よりずっとあいまいであり、もっと複雑な歴史をもっている。最近コロンビア州自治区が最高裁判所の前で行ったように、妥当な憲法解釈の諸原則に基づいているならば、別の解釈の方が、より妥当なものとなる。しかし、アメリカでは銃があまりにも多くの人々を殺しているので、修正第2条はいまや何か別のものを意味するようになったと政府が簡単に主張することはできないのである。

柳井報告は、変化しつつある国際的な安全保障環境について重要な分析をしており、また日本の戦略的な政策の必要性について簡潔な表現で述べている。それは、日本が第9条の制約内で国家安全保障の目的に応えることができるかどうかという重要な疑問を提起している。

柳井報告はまた、憲法改正に賛成する立場に立って、提出するのが妥当な重要な議論を提供している。報告書はさらに、報告書が奨励している変化によって可能となる軍事力の行使を制約するために設けられるべき法的な限界について、かなり詳細かつ見事な勧告を行っている。報告書は政治的な文書としては、少なからぬ価値をもっている。

しかし、第9条が、このようにして長期にわたって確立してきた解釈とは異なる意味を持つべきだという報告書の結論は、まったく説得力に欠ける。懇談会は、その解釈論のいくつかの項目において、誤りをおかしている。しかし、アプローチ全体の非論理性は、これらの誤りを目立たなくさせている。

上述したように、柳井報告は、その政治的分析に価値がありうるとは言えても、憲法の意味に対していかなる影響力をもってはならない。そして報告書に従おうとする政府の試みは、問題とされなければないのである。

以上

(常岡せつ子教授翻訳)

One thought on “The “Yanai Report” on Article 9, Part 4

  1. Excellent coverage – and I have to say I have been thankful for your other articles around the web clarifying the relationship between Article 9 and international law. I wonder if you ever got around to the promised “international law critique”?

    I also have a related but perhaps out of nowhere question – is the legal distinction between international armed conflict and non-international armed conflict in international law meaningful at all in regards to interpretation of Article 9. A recent LDP proposal for a permanent SDF dispatch law made mention of being able to dispatch the SDF for this reason.

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